「さよなら絵梨」感想/『映画』という曖昧かつ恒久的・現実的なフィクション

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藤本タツキ先生の待望の新作、「さよなら絵梨」。
過去作もほとんど読ませていただいているのですが、過去いち好きです。ほんとに。
この作品をいちばん好きなのは絶対わたし!!!と思ってます。超好き。もう何回も読み返しました。
…と思ってたら深夜テンションで文章書いちゃってたので、
もったいないし備忘録として残します。

甘くておいしいホットココアを飲んだときみたいな安心感を覚えた人、仲間です。わたしとはてなブログで握手。
以下、「映画って面白いよね」をめちゃくちゃ分解して書きました。

作品の核にソフトタッチしているので、まだ読んでないよ~という御仁は上から読んでね。


「曖昧さ」

この作品を語るにあたって、読者自身が「映画」をどう感じているのかというところは避けられないでしょう。
「映画」とは、みなさんにとってどういう存在でしょうか。ただの映像?娯楽?芸術?
映画の面白いところは、結局のところ映像でしかないのに観客の受け取り方によってどんな意味も持てるというところだと思ってます。

作中では、「デッドエクスプローションマザー」の受け取り方の違いなんて顕著ですよね。
ラストが悪かった、意味不明、倫理観疑う、糞映画エトセトラ。悪評オンパレード。超面白かった!と言う絵梨。
別に、そこに正解なんてないと思っています。
母親を亡くしたばかりの学生が不快に思う気持ちもわかるし、わたしは面白いと思うので絵梨ちゃんの気持ちも理解できるし。
この作品の変わっている点は、上記と同じような状況が現実でも起きていることですね。現代だからこそ、ですが。
Twitterでこの作品を検索してみると「爆破オチだからB級映画!」「作品が糞映画だった!」と言う人もいれば、
そんなパワーワード合戦に憤りを感じている人もいます。
こんなのは結局合う合わないだと思うので、賛否あるのは当たり前です。
「ルックバック」も、公開直後は割と殺伐とした感想が多かったですね。

それは偏に、藤本タツキ先生の作品が「映画的な曖昧さ」を包括しているからなのだとわたしは思っています。
(別作品に例えるのは好きではないですが、黒沢清監督のアカルイミライが感覚として近いかも)
映画という存在の曖昧さをこういった形で描いてくれた本作が、わたしは愛しくてしょうがないのです。


「恒久的かつ現実的なフィクション」

何年、何十年前の映画でも、人は映画を観て何かを感じることができます。
登場人物の環境や心境に共感したり、その画面の美しさに心を奪われたり。
ファイト・クラブ」のタイラーは何年経ってもかっこいいし、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」1作目のラストなんて絶対泣いちゃいます。

映画を撮影したスタッフや俳優が死んでもずっと変わらないままでいるのが、映像です。
フィルムに焼き付いた映像はフィルムが再生可能な状態で残り続ける限りは不変ですし、気づいたらあるシーンの登場人物の表情が変わってたなんてないですよね。そんなことがあったら、それはもうホラーです。

その人たちが築き上げてきた世界が、映画の中だけではずっと時が止まったみたいに残り続ける。
作中の人物が老けることはないし、作中世界が突然隕石によって消滅することもない。(脚本になければね)

それでも、映画は現実世界を媒介として作られます。誰かがカメラを向けて、照明を当てて、美術を作って、ストーリーを構築して、誰かを演じる。
その作品の中でしか存在しない世界を、現実のように思わせられることはかなり難しいけれどそういった映画はいつまでも名作として残り続けます。

リドリー・スコット御大がその代表ですね!!
ブレードランナー」の中でデッカードが生きる世界、「グラディエーター」に確かに存在するローマの中のコロシアム。
どちらも比較的古い作品ですが、スクリーンの中で確かに存在し続けています。

それは、作品の中に確かに存在する「人間」にも言えるのです。
映画の中の人物は、フィクションだけれどスクリーンの中に確かに存在している、という感覚がわかる人は決して少なくないでしょう。
作中作は、ドキュメンタリー映画だからこそ世界観より「人間」の描写が強くなっています。

それだけではないのが、この作品です!ここが肝!!
この作品が描くのは殺菌消毒された無味無臭人間だけではない、というのが素晴らしいのです。

現実ありのままでないという意味では、優太の作品も紛うことなきフィクションです。
優太の母も絵梨も、カメラの外では嫌な人だったor現実とは相違がある(眼鏡、矯正)と作品でしっかり描かれています。
息子思いの優しいだけの母も、不思議な魅力があってかわいくて明るくて性格のよいだけの彼女も、存在しません。

優太は意識的にそう見えるように編集しています。
作ろうと思えば、「思いやりのない母」を描くことだってできたはずです。
そうすれば、最後の病院爆破シーンはまた違って見えたでしょう。

仕事と自身のことばかりでちっとも息子を見てくれない嫌味な母と、そんな状況を見ないフリしてやり過ごしてきた弱い父

病院爆破
この流れにすれば、おそらく「優太がかわいそうだったけどラストはスッキリした」「親サイテー」みたいな同情的な感想や評価をもらえるはずです。

それでも、優太は作品の中で生きる被写体の美しさを優先しました。思い出の中の母親は、せめて美しくあってほしかったから。
これからも恒久的にスクリーンの中で生きる人物たちが美しくいられるように、現実からフィクションを形成する。
それが映画という媒体の美しさでもあり、人の美しさを知っている人間にしかできないことなのです。


結びとして

これがわたし。 これがわたしというフィクション。 わたしはあなたの身体に宿りたい。 あなたの口によって更に他者に語り継がれたい。

人という物語 - 伊藤計劃記録 はてな版

映画という媒体が持ちうる特性と、優太の人間性が絶妙に絡み合った作品だなと思っています。
元も子もないですが、人間は死んだら何も残りません。ものとかは残るけど、その人がいたという証拠は時を経るごとに失われていきます。
それでも、わたしたちは誰かの存在を他者に語ります。亡くした人なんて特に。
しかし、どう語るかは話者にすべて委ねられるのです。

優太はスクリーンの中で生き続けるふたりの女性をキレイに語り継いでいくということを選択しました。
その選択は非常に人間らしくもあり無垢な子どもらしくもあります。
実際、父はずっと見過ごしてきたという親としての罪悪感に苛まれて、母の嫌なところを息子に語り継ぐという選択をしました。それが間違っているというわけではなく、むしろ過半数はこちら側になるでしょう。
優太の強さは、フィクションを語り継ぐということを選択できたというところです。
そして、最後は爆発で終わる。その爆発に、優太のどういった感情が込められているのかをどう解釈していくかが、この作品の面白さだと思いました。

この文章を最後まで読んでくださった方がいらっしゃるのであれば、あなたは何を感じたでしょうか。
同じような感想でも、ちょっと違った解釈でも、まるっきり反対の意見でも。何かを感じ、考えてくれたのならわたしはすごくうれしいです。